「武士はくわねど高楊枝」と |
日本の精神的土壌を武士道と捉えて、西洋に向けて新渡戸稲造(にとべ いなぞう、1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)は、日本の教育者・思想家。)がひもといている。
Bushido: The Soul of Japan
定例読書会in東久留米 今回は10章 「武士の教育および訓練」でした
「武士はくわねど高楊枝」とまで言ってはいないが、美的なたしなみが教育上重要であり守るべきは品性つまりpersonalityをつくりあげることだと。そのためには金銭は無視せよとまで。訓練と言っている辺りは、そうは言っても金は必要なので、できる限り武士であれと励みそして武士らしくなるように社会実践を続けることになるのだろう。
世にはお坊さんや教師のように、金銭や数値では表現評価できなくてなお大切な仕事があるだろうと例えている。戒名や読経がいくらとか教師の時給がいくらとかという話とは程遠い存在があって、その権化が武士のあり様だと言っているようだ。
たしかに今の世相を想像してみると、お寺にしても学校の教育にしてもこれらの変化を新先人は予見していたのだろうか。政治の世界でも金、なんと美術の世界でも金換算の時代ではないだろうかと思はされる。
さて、月一の読書会で話題にしていることは「がん哲学」をkeywordにして樋野興夫のお話をお聞きすることが主である。そして繰り返して出てくるのが新渡戸稲造の思想価値観人生観で、ゆったりとした時間を共有することができる。
たぶん樋野氏も新渡戸稲造も武道が何たるやではなくて武士がかつて矜持として示してきた精神的なあり様に、いまを生きる我々が見失いかけている視点や行動原理の再提示をされているように感じる。
どちらかというと女性が多いように思うのだがここに集う者は様々で、でも関心事は「がん」と向き合っての自分のありようを手探りしている。そんな方が多い。これに対して樋野氏はゆったりと淡々と、また確信を抱きながらもひょうひょうと持論と感慨と夢を語って毎回のこの読書会が進められている。月一でおよそ7年。繰り返して読み講じられるのは、同じ本をすでに3回目だとか。
わからなくてもいいが許される、そんな時間が過ごせるという雰囲気がここにはあって、これが女性や「がん」に心を疲弊している方たちの気持ちをこの読書会に繋げて来たのではないだろうかと思っている。(合気道に通じる。)
2015.10.11
「武士道 第10章」