おいしいもの、食べたい! は禁句 |
おいしいもの、
食べたい! は禁句。のようだ。
まず、ごく身近なかつ料理については専門のひとに何気なく、この「おいしいもの食べたい」と。
あるとき言ってみたら、なにを取り違えてしまったのかへそを曲げられた。
それで、一般には言及しない方がいい表現なのかなと思い知らされる。いや自己分析をかねてつぶやいたのが失敗だったようだ。
でもよく考えると、本当にそうなのかなといまひとつすっきりしない想いでいるというのが正直なところで。
意図しているところはもっとたのしい事を伝えたかったわけで、その意味でこちらの想いが伝わっていかないことに不自然さを感じ、伝わるであろうが相手に対してこちら勝手の望みつまり「高望み」であったのかなと自問するのです。
拡げて考えれば、日々の積み重ねが人生というのであるならその人生の折り折りに触れて「たのしい思い」がしたい!と思うのです。
たのしいはあくまでキーワードであり、なにがたのしいかの個別の列記にはいまはしないでおきます。
たとえば、1日になぜか3回のあるいは2回の食事である。人の欲にはいくつかあるようでその中の大事な欲のひとつが食べるという行為。それがカロリーとか栄養素摂取とかの話でなくて、腹が減り食事をすれば満足しそれ以上のなにかを心に刻んでいる。はずでありますと思うのです。
その記憶は正確にいえば多くは忘却の彼方にというのが普通、で毎回「感動・満足。充実・至高」というわけではないことは承知しています。
人生で、さすがに1日に何回とか、はたまた一回の食事というありきたりのこととか、もしくは人によってはなんと食事そのものが苦痛!と思う人を、思い浮かべてしまうのです。
いまの私はそこまではいきませんが、ふと「食事にあたりまえの幸せ」なるものを感じた時、いや違うという自分がいるのです。
私に関わりのある人とのつながりなかで、日々の食事に折りに触れて「たのしみの自覚」を共有したいなと。
いつかまた別の稿で、「おいしい」を考えてみる事にします。
ゆとるり合気道 聖
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いま、「がん哲学外来カフェ」や「がん哲学読書会」で、少しずつhintをいただいている。
こんなことにと躍起になっているひとはいないと思いつつ。
ゆとるり合気道 聖 20150710